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川魚グージョンの天麩羅 [帰国後]

永井荷風がリヨンに滞在していた頃から
リヨン市を流れるソーヌ川上流のリールバルブ(髭の小島)辺りでは
川魚の天麩羅が有名だったようだ。

  藤棚に蔽われたる出窓の欄干には、
  川魚天麩羅御料理の札を下げ、
  ・・・「ふらんす物語」休茶屋(新潮文庫)

  通り過ぎる居酒屋へはいって、
  土地で自慢の川魚グージョンの天麩羅で晩餐をととのえる時、
  ・・・「ふらんす物語」蛇つかい(新潮文庫)

‘グージョンの天麩羅’とは?

加太宏邦さんが書いた「荷風のリヨン」(『ふらんす物語』を歩く)に
答えが載っている。

・・・グージョンというのは川はぜのこと。
公害に弱い魚で、今はソーヌ川では捕れない。
昔はてんぷら(フリチュール)といえばグージョンだった。

今、ソーヌ河畔のレストランはどこも決まりきったように
「エペルランのてんぷら」をメニューに掲げている。
ただし、エペルランは海の魚。

荷風のリヨン―『ふらんす物語』を歩く

荷風のリヨン―『ふらんす物語』を歩く

  • 作者: 加太 宏邦
  • 出版社/メーカー: 白水社
  • 発売日: 2005/02
  • メディア: 単行本

加太宏邦さんの「荷風のリヨン」は、
リヨンに行かれる方にぜひ読んでいただきたい本です。


永井荷風「ふらんす物語」 [帰国後]

永井荷風は、
1907年7月30日から1908年3月28日までの八か月、
リヨンに住んでいた。

永井荷風がリヨンに住んでいた理由は、
遠藤周作のような留学ではなく、
銀行勤務のためである。

 西暦千九百七年横浜正金銀行雇人になり、米国紐育を去りて
 仏蘭西里昴に赴き此処に留る事十箇月余なり。
  ・・・「ふらんす物語」序(新潮文庫)から抜粋・・・

●横浜正金銀行とは後の東京銀行(東京三菱UFJ銀行の前身行)である。
●紐育=ニューヨーク、里昴=リヨン

永井荷風は、1907年7月29日19時20分パリ・リヨン駅発の
マルセイユ行き夜行列車に乗り、
翌30日夜明け前にリヨンに着いた。

  突然、列車が一条の鉄橋を渡る響きに目を覚して見ると
 白い壁塗の人家が高い石堤の両岸に立続き、
 電燈の光か月の光か、四辺は非常に明るくなっている。
  いよりよ里昴の市街に入ったのである。自分は慌忙てて落ちている帽子を冠り、
 衣服の塵を払って汽車を下りた。停車場の時計は夜の三時半、
 夏の空は星消え月落ちて、もう白々と明けかかるのであった。
  ・・・「ふらんす物語」船と車(新潮文庫)から抜粋・・・

永井荷風が汽車を下りた駅は、
私がTGVを下りたパールデュー(Part-Dieu)駅ではなく、
ペラーシュ(Perrache)駅だった。

ふらんす物語

ふらんす物語

  • 作者: 永井 荷風
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 1951/07
  • メディア: 文庫


リヨン市若月通り [帰国後]

フランスから帰国後、リヨンについて調べている中で、
リヨン市に日本人の名前がついた通りがあることを知りました。

リヨン市8区にある
Rue Wakatsuki(若月通り)です。

1996年6月27日~29日に
リヨンサミットが開催されましたが、
この時に日本の外務省が用意した一連の‘リヨン案内’の中に
「リヨン市若月通り」(経済局、小野正昭)という文があります。

小野さんの文を参照すると、
大正9年から昭和2年まで7年間リヨン領事代理を務めた若月馥次郎さんは、
リヨン在勤中、日本の伝説・おとぎ話の仏語訳を出すなどの業績を残し、
リヨンの住民から深く敬愛された方で、
没後、リヨン市民からの請願により、若月領事の偉業を記念して、
「Rue Wakatsuki」と命名された通りが1930年に誕生したそうです。

来年のリヨン行きでは、
若月通りを訪ねる予定です。


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